仮想世界に気づく

昨日は 京都市内のお寺さんで 丸一日 非常に濃いセミナー&ワークに参加しました。

 

サラリーマン、OLさん、主婦、自営業の社長さん、学生…年代も職種も 違う人が  広いお寺の仏間で 好きな場所で 好きな座り方で 用意されたワークに 6時間程 トライ。

 

 

せっかくのお休みの日に そう言う場所に お金を払って参加する…

 

何か学びたい、もしくは 自分について 現状について  立ち止まろうとしている、あるいは本来の自分の 片鱗に触れようとしている 、救済を求めてるのかもしれない、気づきたいのかもしれない…何方も様々な想いを持っての参加だと思います。

 

軽いヨガからスタートし 瞑想の練習、それから問いかけ、うちなる自分の批判と向き合う…

様々なワークを通じて 自分を知っていきます。

 

クリパルヨガとマインドフルネスの先生が 素晴らしくて  家で一人でやっているのでは 到底たどり着けない 超デトックスなプログラムでした。柔らかな雰囲気の 先生達ばかりで 終始穏やかに ワークは進みました。

 

自己啓発セミナー、ノウハウセミナーとは まったく違い  そこには 方向性をコントロールする と言う意図は 全くありませんでした。みんながそれぞれの自分の物語に向き合う…静かな書店や 図書館のような空間でした。

 

 

私がヨガを始めて習ったのは もう何年も前のこと。どれもハタヨガで そんなにストイックな関わりではありません。それでも仕事の都合で やめたり 又 暇ができて再開したりを繰り返していました。

 

場所や先生が 変わりながらも なんだかんだで 続けているのは 何故なんだろう…と思います。今は クリパルヨガを週に2回学んでいます。今回もそのクリパルヨガの先生のおすすめで この会に参加したのです。

 

 

どんな人も その所属する世界で 似た様な目的地で集められた  団体に埋もれ   ひたすら利益や生産性、評価、団体での行動、を長いこと 続けていると いつのまにか 自分では 無い、…「違うもの」に 侵略されて 乗っ取られてしまうのではないか、と思います。自分の軸を他人と同調させ続けるのが上手い人、苦手な人、そんな事すら意識しない人…色々立場もあるでしょう。

 

その「違うもの」に すっなり 入れ替わり  そんな状態に も 気づかないまま それが元々の自分であるかの様に    服を着て 仕事に行き、家に帰ってきます。

 

どこかに 押しやられた元々の自分は せめて痛みや 病気になって 心の独り言になって

 

そうやって  体にシグナルを送るしかないのかもしれないですね。そう考えると そういうシグナルって なんだか愛おしいなと思います。

 

 

その展開は まるでオンラインゲームの中で   レベルがあがっていくのにも 似ています。

もらったアイテムを使って 着替えているうちに データが重くなり  やがては 今の パソコンの動作環境では 遊ぶことが 不可能になってしまう…

 

デフラグするか パソコンの買い替えか そのゲームのアイテムをシンプルにするか、といった見直しが 必要になります。

 

あるいはオールクリア。

私にとっては  何故このゲームをしているの?と 問いかける事が 瞑想であり ヨガなんだなと 思うのです。

 

瞑想によって 脳や体は 休みを取りながら そこでクリアリングされ さらにセンタリングもされる。ただ 寝ているだけとは 体も心も休まり方が 違うのだと、今頃 わかりました。

 

スピリチュアルな事に 全く興味がないときに スタートしたヨガと瞑想、アーユルヴェーダと言う哲学。

 

人生に様々な大きな出来事が起こり 体を壊し、心が何度も折れ迷子になり、その度 ヨガと瞑想にゆるく触れてきました。それは あくまでも逃避の為のものだった。

 

スピリチュアルな出会いが 多くなり その世界に傾倒しだし  砂時計の残りが もしかすると かなり少ない?と気づき 全ての環境を一度クリアにして 始めた琵琶湖での暮らし。循環を意識する暮らしを始めました。

 

そこで又 私はヨガの先生に出会い、呼吸と瞑想というツールを手にして 内側に向かって還ろうとしています。もう スピリチュアルな要素をわざわざ意識する事もなくなりました。そもそも 意識しようがしまいが  人はスピリチュアルな存在です。

 

 

週に2度のヨガクラスは 通って2ヶ月目で 私の血液中の 白血球と赤血球の数値を薬を使わずに 正常にしてくれました。貧血も胃痛も治まりました。それが 偶然なのか どうかは わからない。けれど私は徐々に年相応の健康な体を取り戻しているようです。クリパルヨガに出会うために そんな体である必要があったのかもしれません。

 

きっとマリオカート的な ものや 迷路を戦い謎解きながら進むゼルダの冒険的なゲームのアプリを全て削除したのだな…

 

 

 私を求めてくれるものに 触れ 、 求めているものに自分で 触れる。そうやって充電し たまにデフラグし 大量の不要データを綺麗にし 不必要なUSBは抜き 身軽に 必要なものだけを携えて 好きな場所へいく。

 

繊細なモノを感知できる様 網目は細かく細かく しつつ   丁寧に流れを尊重する、そんな暮らしは とても私に合っているように思います。今のところはね。

 

 

 

ファイルには沢山の喜びの記憶と それを際立たせる薄い影も しまわれているんだろうな。

 

 

私というハードディスク、もしくはこの小さなノートブックが 時代遅れになりながらも 出荷時の状態に戻される事なく なんとか 現役で動き続けてくれますように。

 

今朝も ゆるい瞑想に入ります。