セラピーの記憶

今回は 3日間、東京に滞在しました。

 

2日目は

駒込、巣鴨でお仕事があり

帰りに 仲良しのクライアントさんと美術館へ。

 

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 初めての東洋文庫

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巣鴨では おまつりに遭遇

 

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…記念に一枚買いました(笑)

 

 

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ミステリアス スポット巣鴨…

 

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夕焼けが とても 綺麗。

 

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クライアントさんとビール。

 

セッションをしつつ

結局 私が癒されまくった 日だったなぁ。

ありがたいです。

 

 

そのあと 体調が悪いのに

わざわざ 来てくれた 別な人と

又 同じお店へ(笑)

 

今度は その人へのセラピータイム。

 

誰しも 体調の悪い時は あって

もし、自分が しんどかったら…

何をされたいか

何をされたくないか

 

そんな事を考えながら

過ごしました。

 

そういう意味では

学びの時間だったと言えます。

 

 

自分の 一時的な感情なんて

どうでも良い 取るに足らないものだし

 

そもそも

今 、私の 大切にしていることは、

誰かの世界を変えてしまう事では無く、

世界を増やす手伝いをする事。

もちろん自分の世界も含めて そうしたい。

 

 

 

思えば 私は 子供の時から 一般的にはタブーとされている事に 早くから向き合っていたなぁと思います。死や 家族と言う 根深いタブー。

 

もちろん それを 望んではいなかったけれど   そんな環境だったわけで

 

今や それは 私の 武器でもあるのだろう、なんて思ったりもします。

 

そんな トラウマを超えて その先へ行くのは とても孤独なわけで  最近 かなり お疲れ気味。

でも もぅ仕方のない 事。

 

今更 もう 誰かに寄り添ってもらおうとも 思わないし  早く あっちの世界へ 帰りたいと 心から 願ったりしてる。タブーとしての 死という響きは なんと 甘く心地よいか…。

 

 

なんで こんな事してるんだ?

自分、何やってんだろう?

…って ずっと思っていて

 

そんな私が

セラピーしてもらえたり、

したりする機会が あるのは

有難い事です。

 

 

 

 ***.  ***.  ***

 

東京初日…

横浜から 川越へ。

すでに 懐かしい…

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1g(アンジー)と言う素敵なお店でランチ♡

ナシゴレン美味しかった♡

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念願の和ろうそく、伊勢神宮のお塩入り

ゲット。

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 風鈴が 綺麗。

縁結びの神様がいる。

 

みなさん お幸せにね。

 

 

 

 

2日目は 武蔵小杉へ。

そして夜は巣鴨。

 

3日目、

池袋で これからセミナー。

 

 

 

今日 滋賀へ帰って

明日また名古屋へ移動すべきなのか?

 

それとも又 東京泊して

明日 名古屋へむかうか?

 

…考えています。

 

 

今朝、コーヒーを飲んでいたら

いきなり、ゲーテのテキストが 知り合いから

送られてきました  笑

 

なぜ?ゲーテ?

 

 

 

 

改めて 自分に問う…と、

言うこと かもしれないですね。

 

 

今 自分は

 

何が欲しいのか

どうしたいか

どうされたいか

どう在ったら良いか

  

 

答えは 出ているとも

出ていないとも言える。

 

 

んー、そろそろ

セミナーに意識を戻そう。

又 迷宮に ハマりそうです。

 

… 私に  いつか

メンターが 現れると いいな。

答えを 教えて欲しい。

 

 

 

 

***.  ***.  ***

送られてきたゲーテのテキスト。

 

自然-断章 ゲーテ

自然!われわれは彼女によって取り巻かれ、抱かれている-彼女から抜け出ることも出来ず、彼女の中へより深く入って行くことも出来ない。頼まれもせず、予告することもなしに彼女はわれわれを彼女の輪舞の中へ引き入れ、われわれとともに踊り続けるが、そのうちに我々は疲れ果て、彼女の上から滑り落ちる。
自然は永遠に新しいもろもろの形態を創る。いまあるものは、かつてけっして存在しなかった。かってあったものが、再び来ることはないーすべては新しく、しかもつねに古いものである。
われわれは自然のただ中に生きていながら、彼女のことを知らない。彼女は絶え間なくわれわれと話しながら、われわれに自分の秘密を打ち明けない。われわれは絶えず彼女に向かって働きかけながら、彼女に対してなんらの支配力を持たない。
自然はすべてを個性にもとづかせたように見えるが、個体など少しも重んじない。彼女は建設と破壊を繰り返し、彼女の仕事場には誰も近づくことが出来ない。
自然は子供達とばかり生活している。しかし母親は一体どこにいるのだろうか- 彼女は比類の無い芸術家である。いとも単純な素材から最大の対照物をつくり上げ、苦労の跡もなく最大の完成に至る。― 緻密な確実さを有しながらつねに何か柔弱なものでおおわれている。彼女の作品はいずれも独自の存在をもち、彼女の現象はいずれもはっきりと孤立したげんじつではあるが、すべては一つをなしている。
自然はひとつの芝居を演じている。彼女がそれを自分で見ているかどうか、われわれは知らない。しかしながら彼女はそれをわれわれのために演じ、われわれは片隅にたっている。
自然のうちに永遠の生命・生成・運動がある。しかし彼女は先へ進んで行くわけではない。彼女は永遠に変化し、一瞬も静止することはない。停滞ということに彼女は何ら理解を持たず、静止に対して彼女は呪いをかけた。彼女は決然としている。彼女の歩調はしっかりと定まり、彼女の例外は稀で、彼女の法則は永劫不変である。
彼女は思考した。そして絶えず思念している。しかし人間としてではなく自然としてである。彼女はすべてを包括する独自の思念を自分だけに取っておいたので、だれもそれを彼女から窺いい知ることはできない。
人間はすべて自然の内にあり、彼女はすべての人間のうちにある。すべての人々と彼女は好意的な一種の賭けごとをし、彼らが、彼女から多くの物を手に入れれば入れるほど喜ぶ。彼女はその賭けごとを多くの人びとと非常にこっそりやるので、彼らが気づかないうちに、もうそれをやめてしまっている。
もっとも不自然なものも自然である。彼女をいたるところに見ない者は、どこででも彼女を見極められない。
自然は自分自身を愛し、数限りない眼と心で永遠に自分自身に執着している。彼女が自分を無数に分かったのは、自分自身を享受するためである。彼女はつねに新しい享受者たちを成長させ、飽くことなく自分を分かち与える。
自然は幻想を喜ぶ。幻想を自分自身および他人の中で破壊するものを、彼女は 苛酷きわまりない暴君として罰する。彼女に信頼して従うものを、彼女は子供のように抱きしめる。
自然の子どもたちは数限りない。どの子どもに対しても彼女はいたるところで物惜しみをしない。しかし彼女には寵児たちがおり、彼らに彼女は多くのものを浪費し、彼らのために多くのものを犠牲にする。偉大なものに彼女は自分の保護を結びつけた。
自然は自分の被造物を無からほとばしり出させ、彼らに、どこから来てどこへ行くのかを告げない。彼らは走りさえすれば良いのであって、走路は彼女が知っている。
自然は少数のバネしかもっていない。しかしそれらは決して使い減らされたものではなく、つねに効果的で、つねに多種多様である。
自然の演ずる芝居はつねに新しい。なぜなら彼女はつねに新しい顧客をつくり出すからである。生命は彼女のもっとも素晴らしい発明であり、死は多くの生命を生み出すための彼女の技巧的手段である。
自然は人間を暗い状態の中へ包み込んでおいて、永遠に光を求めるよう彼を駆りたてる。彼女は人間を地上に依存させ、重く不活発なものにさせておきながら、彼を繰り返し奮い起こさせる。
自然が種々の欲求を与えるのは、運動を愛するためである。彼女がこれらすべての運動をかくもわずかのもので達成したのは驚くべきである。いかなる欲求も恩恵である。欲求はすぐに充たされ、すぐにまた生じてくる。彼女が欲求をひとつ余計に与えてくれるならば、それは新しい快楽の源である。しかし彼女はほどなく平衡を取り戻す。
自然はあらゆる瞬間に最長距離をおきながら、あらゆる瞬間にゴールに到達している。
自然は空虚そのものである。しかしわれわれにとっては、彼女は最大の重要性をもったものである。
自然はどの子どもにわが身を飾らせ、どの愚か者にも自分を裁かせ、幾千の者に自分の上を無感覚に越えていかせ、何も見させない。そして彼女はすべての者のやることに喜びを見出し、すべての者に満足する。
人間は自然の法則にさからうときにもそれに服従し、彼女に反抗して活動しようと思うときにも彼女とともに活動している。
自然は彼女の与えるすべてのものを恩恵として与える。なぜなら、彼女はまずそれを必要不可欠のものとするからである。彼女が怠るのは人々に自分を熱望させるためであり、彼女が急いで行ってしまうのは、人々が彼女に飽きてしまわないためである。
自然は言語も話す言葉ももたない。しかし彼女はもろもろの舌と心臓をつくり、これらを通じて感じたり話たりする。
自然の冠は愛である。愛によってのみ人間は彼女に接近する。彼女はすべての小物のあいだに間隙をもうけたにもかかわらず、すべてのものは互いにからみ合おうとする。彼女がすべてのものを孤立させたのは、すべてのものを引き寄せるためである。愛の酒杯からほんの少し飲むだけで、彼女は労苦に充ちた生活の償いをする。
自然はすべてである。彼女は自分自身を報い、自分自身を罰し、自分自身を喜ばしめたり苦しめる。彼女は粗野でしかも優しく、愛らしくしかも恐ろしく、無力でしかも全能である。すべてのものは彼女のうちにある。過去と未来を彼女は知らない。現在が彼女にとって永遠である。彼女は善意に充ちている。私は彼女をそのすべての作品とともに賛美する。彼女は賢く寡黙である。彼女から名言を奪い取ることはできず、彼女が進んで与えてくれるのでなければいかなる贈り物も無理じいすることは出来ない。彼女ははかりごとを用いるが、よい目的のためであり、いちばんよいのは彼女のはかりごとを何も知らないことである。
自然は全体でありながらつねに未完成である。現にやっているように彼女はいつもやることができる。
各人に自然は独自の姿をとって現れる。彼女は幾千の名称と術後の中に身を隠すが、つねに同一のものである。
自然は私を引き入れたので、また私を連れ出すであろう。私は彼女に身を委ねる。彼女は私を思うように扱ってかまわない。彼女は自分の作品を憎まないであろう。私が彼女について語ったわけではない。そうではなく、真実のこともあやまったことも、すべて彼女が語ったのである。すべては彼女の責任であり、すべては彼女の功績である。